つづき
今回は、8年目で再発した例ですが、
仕事柄、一般の人より
他人の命のやり取りの現場に携わる機会が多い私は、
「寿命」について考えることがある。
生を受けたからには
必ず誰しも最後を迎える。
「寿命」は
決まっているようで決まってはおらず
決まっていないようで決まっている
と、感じるのだ。
(意味がわかりません)
そうですよねー
他で例えるなら、
必然は偶然であり
偶然は必然である
と、同じような印象を受ける。
人生の所々において
選択肢が別れており、
どちらに進むかによって
寿命が決まるが、
選択した時点で
自分で寿命を決めている。
これらを含めて
寿命は決まっているのでは?
とも思うのだ。
(それなら最初かっら努力なんかしなけれな良いのでは?)
そういう考え方もあると思います。
ただし、これは
「寿命が短くても良い!」←ここ大事
と思う人は、それで良いのだろう。
しかし、
「短い寿命は嫌だ!」という人は
90%の可能性を紐解けば
それ相応の結果になり
10%の領域と併用することで、
それ相応の結果になる。
しかし、
90%の可能性を選択したからと言って
「わかったフリ」
「知ったフリ」
をすれば、それ相応の結果に終わる。
現在、末期で終末を迎えている友人がいる。
私の友人だけに90%の可能性を知っている。
医者を盲信している人間に比べて
90%の可能性に携わる生活をしていたが、
自分が大病をした際、
医者の精密検査で
「数値的にも腫瘍マーカー的にも大丈夫です!」
と言われて退院したが、
自分の感覚(90%)で
「何か変だ!何か変だ!」
と言っていたら、
1年後、更に難しくなって再発した。
体質を変える事
つまり、畑を変える事までには
至らなかった。
友人は、90%の感覚で
間違いなく医者の上を行っていたが、
異常を感じていながらも
たかをくくっていた結果になってしまったのだ。
今からひっくり返すのは極めて難しい。
医者が「大丈夫!」と太鼓判を押しても
感覚では「何か変だ!」と察知していた段階で
気を抜かず対処する方法もあったのでは?
と、悔やまれる。
つづく…