つづき…

昨年、乳がんで亡くなった
叔母も同じだった。

入退院を繰り返していた際に、

「医者は大丈夫だ!って言ってるから大丈夫だっぺ」
(どこの人だか?バレバレの表現…)
と、言っていた。


「気を抜かず、
やる事(蒸しタオル、体操)をやった方がイイ」と
言い続けたが、

やはり、
再発して、戻っては来れなかった。

生前、見舞に行った際、
「前兆はなかった?」と聞いたら
本人は「あった…」と答えた。

前兆を感じた際に
もっとやるべき事は無かったのか?
と悔やまれる。

叔母は、90%の可能性は
知らなかった。

体操も蒸しタオルも押し売りのように
TELで教えただけで(限界がある)、
実際に、実行していたのか?どうか?は
定かではない。

私は、これ以来、
90%の可能性を押し売りにするのは止めた。

本人が真剣に取り組む気が無いのに
押し売りをしても全く意味が無い事を確信したからだ。

このまま放っておいて
大病になる事が予測できても、
命が危ぶまれる可能性があっても
聞く耳の無い人間に言っても意味がないのだ。

押し売りをしたところで
命は、待ってはくれない。

身体と「真摯に向き合う」という意味が
少しは分かってもらえるかと思う。

大病をした際の

検査結果を根拠とした
医者の「大丈夫!」

に対して

本人の「何か変だ!」及び「前兆」

この違いを、どう受け止めるのか?

これも「寿命」と言ってしまえば、
簡単に諦められるのかもしれないが、

諦めるなら、最初から
10%の医者に命を丸投げすれば良い。

諦めず、90%の可能性を引き出す事を考えるなら
普段から、身体とどう向き合うのか?

この一点に尽きるのではなかろうか。

それには備えが必要であろう。

先に言った
「知ったフリ」
「出来たフリ」
では、備えにはならない。

死は必ずしも悪いことではないが、
非常に難しい問題である。

逝く人間も、残される人間も
後悔が無いようにしたいものです。

それには?どうするのか?

普段から考えておいた方が
良いのかもしれませんね…

今回は少しディープな内容でした。

おわり