空手の組織は、流儀の違いから
流派が数多く別れているが、

流儀の違いは、
何処の流派が
強いか?弱いか?の違いもあるのであろうが、
単に強弱の物差しだけで流儀を判断するのは、
余りにも低次元過ぎる素人発想である。

空手の組織が、数多く存在するのは、
第一に、組織の何たるか?を
貫くためである。

習い事として、
どの流派を選ぶのか?は
その組織の「こだわり」に
フォーカス(注目)したとき
何を感じるか?である。

武道に付き物の正座が
「身体に悪い」という意味の無い風評に踊らされて
空手着を身につけて「体育座り」をさせる組織?

こうなると
「こだわり」も「貫き」も
間違いなく皆無だ!

流儀としての信念が無く
技を見るまでも無い。

貫くどころか、
世間の風評に踊らされている。

踊らされている時点で
空手ではなくダンス!(どっかで聞いたな?)
にした方が良いのでは?
と、思ってしまう。

そんな風評に踊らされる組織に、
学ぶべき物があるのか?

親は、そんな空手擬きの組織に
何を求めるのか?
何を子供に感じさせたいのか?
何を目指しているのか?

見極める事ができない親は、
何も考えていないのだろうし、
何も考えられないのであろう。

それは、明らかに
親に「考える力」が無いからである。

「考える力」の無い親のところで
「考える力」を持った子供が育つであろうか?

「考える力」の無い環境で
「考える力」が育つのだろうか?

つづく…