今回の元気なうちに
遺影写真を撮るということは

写真撮影を機に、
今までの人生の反芻や
根拠があるようで無い
今までの無意味な
価値観が揺らいだとき、

誰もが持つ神体に触れ
巷でいう奇跡が、
思わぬ形になって顔を
だしたのではなかろうか。

私は、
今回のノンフィクションを観て、
写真撮影を機に、人間誰しもが持つ
神聖なる部分に触れた結果が
奇跡を起こすことになったのだ!と
直ぐに考えました。

みなさんには
今回のノンフィクション
どのように映りましたか?

キッカケになったのは写真撮影ですが、
そこには「死」に直面した
現実があることも
見落としてはいけません。

だからこそ、
「覚悟」が生まれ
一種の「悟りの境地」にまで達する訳で、
そこが神聖なる神体の領域になるのです。

これを考えると、
人間にとって「死」とは
決して悪いことばかりではなく
大きく進化できる側面があることも
否定できないのです。

それでも、
人間には色々な人がいますので
「死」を持ってしても
成長の欠片もない輩もいる。

またまた、脇道に逸そうになっていますが…

この解説が100点ではないにしろ、

写真を撮ることで、
医学や科学が立ち入ることのできない、
本人が持つ、内なる何かに触れ、

その結果、
自身の中で変化が起き、
奇跡が起きたと考える方が
納得できるのではないでしょうか?

それとも、
写真を撮れば誰でも元気になる!
というサル理由で納得されますか?

人それぞれですから
それも、また、ヨシ!としましょう。

私には、とても奥深く映った
今回のノンフィクションでした。

 

 

 

 

おわり

 

 

追伸

 

つづく…