3年前、田舎っぺ大将女に初めて会った際、
話の流れで、「ついで」に
身体を診なければいけなくなった。

あくまで、
「ついで」である。

カナダ人夫婦の身体を診ていたら
「ついでに私も診て下さい」
と、言って図々しく横たわってきたのだ。

我々の感覚からすれば、
「ついで」に身体を診るということは、
「所詮」の命という事になる。

「所詮」の意味?
分かりますよね?

我々の世界では、
「ついで」で身体を診るということは、
何の意味も持たないことを表します。

要は、「無駄だ!」という事。

「屁の突っ張りにもならない!」という事。

何故なら、
身体を診ること=「命と向き合うこと」

「命」とは真剣に向き合うもの。

これ、当たり前!

命は、遊び半分の、何かの、
「ついで」に
向き合えるものではない。

これは、診る側だけでなく、
診られる側も「真剣に向き合う」
ということは、決まっている。

命に「ついで」は
存在しないのが持論だし、
存在しないのが当たり前なのだ。

診てもらう側は、
容易く「ついで」と言うので、

それなら

診る側が、「ついで」なら壊してもいいのか?
と聞くと、文句を言う。

「ついで」の命であれば
壊しても良かろう!と思うのだが
どうやら違うらしい。

命を分かっていない奴ほど
タチが悪く「ついで」を持ち出し、
命を分かっているかのような口を叩く。

身体や命を扱う世界において
「ついで」という言葉は
診てもらう側の一方的な
傲慢さを表した言葉に過ぎないのだ。

そんな「ついで」の考えで
身体を診たところで、
変化はしない!し、
何も伝わらない!し、
何ひとつ身にならない!

結果、何の意味も持たないことに繋がり、
単なる無駄に繋がるのだ。

これは、絶対である。

今まで「ついで」で診た人間で、
身体のメカニズムを理解し、
モノになった人は1人もいない。

そんな理由から、
「ついで」を容易く使う
田舎っぺ大将女を
本心から診たくはなかった私は、
同席していた友人に振ったら
友人もやんわり断ってきた。

それで、気の弱い私は、
仕方なくお腹だけ診る流れになったのだ。

そのお腹の感触に
婦人科系の大病が脳裏をよぎった。

独特のお腹をしている。

「婦人科系、気を付けた方がいいかもしれませんね!」

診た手前、身体は変えとも、
助言だけを伝えた。

 

 

 

つづく…