つづき…

 

夜空に浮かぶ満天の星を
思い浮かべてみましょう。

人生を難なく普通に過ごせている人には
「明日が来るのか?」
なんていう不安に襲われる事は
絶対に無いのです。

明日が来ること自体が当然だから、
考える訳がありません。

そんな当たり前の感覚しかない人間に、
大事なことなど見える訳がありません。

人とお金が行き交う、何でも揃う、
明るい繁華街で、夜空を見上げたところで、
何が見えるでしょう?

楽しい目の前の現実は見えても
星のひとつも見える訳がないのです。

 

ところが、

死を宣告されて
目先が真っ暗になった時、
何が見えるでしょうか?

 

一寸先は、漆黒の闇の中で、
夜空を見上げた時、
何が見えるのでしょう?

満天の星空しか見えません。

「死」を宣告された時、
難なく過ごせていた平凡な日常に、
忘れていた「大事なもの」が
見えてくるのではないでしょうか?

もっと、わかりやすく言えば
何不自由なく健康で過ごせてきた人が、
「健康を失ったとき」
今まで気が付かなかった何に?
気が付けるのでしょうか?

死を宣告される事や
病になる事は、

「気付き」

「目覚め」

「悟る」

キッカケになるのです。

 

「終活」とは、

「死」とは、

「人生」とは、

そんなものです。

 

私流に言わせて貰えば、

「だったら普段から大事なものを見失うなよ!ボケ!」
って感じですが、

少し長くなりましたが、
誰もが通る、
肉体から離れるときは、
正しい知識を持っていれば、

宗教宗派クソ坊主に
惑わされなくて済みますし、

残された家族は、
余計な出費を考える必要など
全くないのです。

全ては、
故人本人の意識レベルと
関わる家族の意識レベルに
その答えがあるのです。

何不自由なく順風満帆に過ごしてきた
無知な残された家族は、
葬儀には、お金をかけて、
故人のことを思っているフリ?をしながら、
盛大な自己満供養をすればイイでしょうし、

自分の我を通したい故人は、
肉体を離れたあと、
時間制限のない世界で
好きなだけ孤立すれば良いのです。

 

それでも、
あの世は本当にうまく出来ていて、
そんな身勝手な故人に対してさえも
見放さずに、寛大な心持ちで、
最後まで、側で、見守ってくれている存在がいるのです。

(そんな馬鹿、私なら直ぐ見放しますけど…その存在については、
更にディープな話になりますので、ここでは記しません)

その存在に気が付けば、
必ずや道は開けるでしょうし、
成仏の途に、
進化向上の途に、
付くことができるのです。

それには、

「聞く力」

「考える力」

が、非常に大事になりますよね!

(「聞く力」「考える力」があれば、
最初から孤立しませんけどね…)

 

 

人間界であるこの世は、
罪を犯しても償いをせずに
平然と生きている輩がいる
虚偽がまかり通る世界ですが、

あの世では、
虚偽は無く、
自由と平等が寸分の狂いもなく働き、
この世以上に良くできている世界なのです。

だから、

この世は偽りの世界で
あの世が真実の世界なのです。

 

そんな元の世界に、
行ってみたいと思いませんか?

だから、
私は真実の世界に戻るのが
楽しみでしかないのです。

 

 

ですが、自害は、
絶対にダメですよ。

そんな話も、
また、機会があれば…

 

 

おわり

 

 

追伸

 

余談ですが、
人間の身体は、
何でできていると思いますか?

コラムの所々に
ヒントがありましたが…

答えは、

頭、骨、皮膚等の
医学的なことではなく、

スピリチュアル的に
何で出来ていると思われますか?

物理的な世界に生きる身体は
物質的で、

目に見えない世界で生きる身体は、
非物質的です。

非物質的な身体は、
魂とか霊魂などとも言いますが、

普通は、
物質的な肉体と
非物質的な霊魂だけでは
うまくくっつきません。

実は、ここに、
接着剤的な役目を果たす
半物質の身体があって

「身体のある部分」を中心に

シッカリと
物質的な身体と
非物質的な霊魂が
くっついているのです。

人間の身体は、
物質的な肉体と
非物質的な霊魂を

半物質の身体が
接着剤的な役割を果たして
成り立っているのです。